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山田長政の時代の南蛮貿易と朱印船

 南蛮人といえば、例の足首をしぼったダブダブズボンにフルリの付いたシャツ、それにマントを羽織った異国人の姿がすぐに思い浮かぶ。元、南蛮は中国から見て南方の野蛮人と言う意味で、ちなみに日本は倭で東夷だ。共に失礼な話であるがその南蛮地域、当時のシャムやルソン等から日本に交易に来ていたポルトガル人やスペイン人をさす。

対する語に紅毛人と言うのがある。これはポルトガル、スペインに比して北方のオランダ人などを指す。もっとも、日本人から見てそれは厳密に区別がつかなかったのか、全部ひっくるめて南蛮人と言うようになり、あいまいになってしまった。

 それはそれとして、おおむね16世紀半ばから17世紀半ばにかけての東南アジア諸国の貿易はこの3国が握っていたのである。

ただし彼らの国には輸出のできるような物産は無く、この地の富を売り買いして莫大な利益を上げ、あるいは植民地にするなどして支配下において収奪していたに過ぎない。

 始めに欧州から、喜望峰回りでアジアに進出したポルトガルはインドのゴアに拠点をおいて、マラッカからマカオに進出、ついにマカオに基地を得(1887年には植民地する)勢

シャム国アユタヤに活躍した山田長政の戦艦図絵馬を元にその復元模型を建造した。描かれた船はガレオン船である。長政はシャムに渡り王に仕え、勲功を上げリゴール王にまで昇りつめた。静岡浅間通り商店街では毎年長政まつりが開催される。明和3年(1766年)頃の作と推定されている。慶長期から享保年間に及ぶ、渡来オランダ人の風俗習慣を記述した書籍、中にガレオン形式の大型オランダ船を描き、内部解剖図も添付されている。山田長政が静岡浅間神社に奉納した戦艦図絵馬の船絵に酷似。
   オランダ船図
 阿蘭陀人日本渡海発端』 

  東京大学学術資産等アーカイブズポータルより

シャム国アユタヤに活躍した山田長政の戦艦図絵馬を元にその復元模型を建造した。描かれた船はガレオン船である。長政はシャムに渡り王に仕え、勲功を上げリゴール王にまで昇りつめた。静岡浅間通り商店街では毎年長政まつりが開催される。
  朱印船模型(末吉船) 

         筆者 建造

力を拡大した。オランダは元スペインの一地域であったが独立戦争(八十年戦争1568~1648年)に勝利、1600年頃には実質的に独立、スペインに敵対して1602年に東インド会社を設立、ジャカルタを基地に次第に勢力を広め、1621年には西インド会社をも設立した。一方スペインは、新大陸の植民地を足がかりに太平洋を横断し、フィリピンのマニラに拠点を建設、1565年から始まるマニラガレオンを創始した。また1580年にはポルトガルを同君同盟として一応の支配下におく。マニラガレオンは新大陸で産出する銀を取引材料に東南アジアの香辛料、中国の絹製品など、莫大な富を本国スペインにもたらした。オランダ西インド会社はこのマニラガレオンを狙う私掠船活動を専らとする戦闘集団でもあった。

 さて、1602年オランダ東インド会社設立期に始まるオランダ、ポルトガル戦争で喜望峰回りの航路はオランダが制圧、1663年遂にオランダが勝利、以後香辛料貿易の利益はオランダが独占することになった。このように、東南アジア貿易はポルトガルから徐々にオランダに移って行った。

ともあれ、南蛮貿易とは当にそんな渦中に、当初はポルトガルが、後ほどはオランダ船が日本との貿易でも莫大な利益を上げていた。南蛮屏風には南蛮の風俗とともにこの貿易に活躍したいわゆる南蛮船の絵も描かれている。杉浦昭典氏は明快に「南蛮屏風に南蛮船が描かれた時期と西洋におけるガリオンの最盛期はほぼ同じと考えてよい。したがって南蛮屏風に描かれた南蛮船がガリオンでないとすれば、それは明らかに写実ではない。」とされた。ガレオン船とは、当時最先端の3本マストを有する数百トンから1000トン、あるいはそれ以上もある大型船で、1620年、かの清教徒ら102名が英国から新大陸に向けて出発したメイフラワー号もこのガレオン船であった。  

 それはそれとして、この莫大な利益を生む航海を、日本の貿易家もただに指をくわえて見ているだけでなく、自らも船を仕立てて海外に出て行こうというものが現れた。幕府もこれに目を付けて積極的に後押しをする。朱印船貿易はこうして発展して行ったのである。

 しからば、朱印船とはなにかというと小和田哲夫氏は「政権担当者から海外渡航を認められ、船籍証明書をもらった船主が、それを持参して渡航・貿易に従事した制度」で、許可制にすることで介入統制する、そして利益の分け前をとる。貿易従事者にとっては倭寇や海賊でない証明書で信用を得、交渉がスムーズに運び、場合によれば現地での便宜や助力を受けられると言う、双方に利点があった。徳川政権発給の朱印状をもった貿易船は、慶長9年1604年から寛永12年1635年の31年間に合計356隻が出帆している。渡航地は多いものから、交趾(ベトナム)71回、シャム56回、ルソン54回、カンボジア44回等である。貿易家では、大坂の末吉孫左衛門、京都の角倉了以、茶屋四郎次郎、長崎の末次平蔵らが著名である。彼らは航海の安全を祈って各地の神社に船絵馬を奉納した。石井謙治氏は、それら絵馬等から寛永期の朱印船は、中国式ジャンクとガレオン船との合いの子といった形式。隔壁を有する中国式船体に洋式船なみの外板張りをしたものであると、また、巨大な船首楼は類を見ず、強いて言えば、日本軍船の矢倉と同じ形式で、舷側の外に張り出してその間に櫓を漕ぐ櫓床を設けるあたりはそっくり、「結局この手の朱印船の船体は、中・洋・和の折衷形式とみるのが適切であろう。」とされた。

帆装は中国式の網代帆に洋式の船首遣出し帆(スプリットセール)、船尾には三角帆(ラテーンセール)を備え、このような折衷形式を、合いの子、ミスツイス造りとも紹介されるが、同氏は「日本前のほうが適切なような気がする。」と述べられた。絵馬ではないが茶屋新六交趾渡航絵巻によると、彼の朱印船は「長さ25間、幅4.5間、乗組員3百余人」とあり、約480トンと推定され、平均的な朱印船像であるそうな。さて、朱印船での輸入品目は小和田哲夫氏『山田長政 知られざる実像』によると、生糸、絹織物、綿布、羅紗、鹿皮、鮫皮、蘇木、金、鉛、錫、硝石、砂糖、香木である。上位は中国産の絹製品で国内の需要は大きく、利益の源泉である。蘇木は赤の染料、鹿皮 鮫皮は武具刀装品用で武家の必須の品目、また、硝石は火薬の材料で日本では産しない。

硝石は豊臣秀頼つぶしにかかっていた徳川家にはなによりも欲しい品目であったに違いない。鉛も鉄砲の弾丸の材料であるし、品目は民生、軍事の超必要な品目ばかりで、それであるから利益も膨大であったのであろう。

 対する、輸出品は、銀がトップである。当時日本は世界でも有数の銀産国で、これは中国で唯一の必要品であるらしく、次に、銅、硫黄、鉄、樟脳、麦粉、鍋、釜、刀、鋏、小刀、陶器、扇子、漆器、帷子である。シャムには良質な硫黄は無く、これは硝石同様火薬原料で、かの国の不足する軍需品、なにか硝石と硫黄のバーターのような気がする。

鉄と鉄製品は意外な気もするが、鉄は慶長期で年産1千トンとされるから戦国時代の終焉で過剰になったのかも知れない。銀、銅、鉄と主要な金属の3品を輸出していた。

その他の品目で、工芸品は日本のお家芸で貴族富裕層の期待にこたえたものであろう。

さて南蛮船貿易も、年間10隻を超える朱印船も次第に制限が加えられる。確固たる封建統一政権を目指す幕府と、神の前には皆平等のキリスト教の教義とは相いれない。加えて彼らの外地でのキリスト教の布教とその植民地化は表裏一体のもので、日本としても充分警戒の必要があった。

シャム国アユタヤに活躍した山田長政の戦艦図絵馬を元にその復元模型を建造した。描かれた船はガレオン船である。長政はシャムに渡り王に仕え、勲功を上げリゴール王にまで昇りつめた。静岡浅間通り商店街では毎年長政まつりが開催される。当時の朱印船寄港地。

⚓寧波

⚓安平

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マニラ

アユタヤ

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⚓ナコンシ-マラート

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呂 宋

⚓香港

​朱印船寄港地

⚓:朱印船寄港地

​・ 日本人町

 キリスト教を邪教とみなす思想は、秀吉のバテレン追放令(天正15年1587年)に萌芽していたが徳川幕府はさらに徹底弾圧、平行して外国との往来を制限していく。

ついに邦人の海外渡航禁止(寛永12年1635年)で朱印船の終焉を迎え、いわゆる南蛮人の渡来はオランダ 1 国のみ、それも長崎出島に限る(寛永18年1641年)厳しい制限を加え、いわゆる鎖国体制が完成した。以後、幕末まで、外国との積極的な交易交渉は途絶えた。

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