top of page

山田長政の戦艦の復元模型を建造
​ 私設非営利木製帆船模型工房
​ 狭山造船所京橋船台 船 匠   平田紘士

data:image/jpeg;base64,/9j/4AAQSkZJRgABAQAAAQABAAD/2wCEAAoHCBYWFRgWFhUZGBgaHBocGBoaGhoYGBkaHBgaHhoYHBocIS4lHB4rIRgdJjgmKy8xNTU1GiQ7QDs0Py40NTEBDAwMEA8QHxISHjQkISQ0NDQ0NDE0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NP/AABEIAQMAwgMBIgACEQEDEQH/xAAbAAABBQEBAAAAAAAAAAAAAAACAAEDBAUGB//EAEEQAAEDAgMGAwUHAgUCBwAAAAEAAhEhMQMSQQQFIlFhcTKBkQYTobHwFEJScsHR4WKSFSMzwvGCohZDU2OTo7L/xAAYAQEBAQEBAAAAAAAAAAAAAAAAAQIDBP/EACMRAQEAAgICAgIDAQAAAAAAAAABAhEDIRIxQVEiMgQTYbH/2gAMAwEAAhEDEQA/ALh3ThxGRvohG6sOIyNtyWrlSaxeWSOjNburD/A1GzduGI4AK8pWk1iMM+vNWaFI7uw/wN9ELt3M/A30C0C2qTmKiizYWD7jfQIMTYmH7jfRaIYgcxWVFL7IwfcHoiGyMH3R6BWixOGqrpV+zt/CPQJe4b+EegVkmKn1VR+88FsziNNYOWX15cIPMeq17SkMJv4R6BN9maT4RPZP9sZGaTHUEXnn2KbZ9rY/wOB6EEH0IBTQk+xt/CPQKF+yt/CPQLQApVRlqJVRuyM/A30Cf7Iz8I9ArWVKEFM7O38I9EAwByCuvahDE1BVZgjko34Q5K9lUTmKaFD3VYRjDFoVo4dUD2UQVfddB6pKzlSWhqFqQCkIQtXCNHATuj5fNIlOVoMAnhOnRQpiEUJoRDQmcERCUKjgt87WcXFcx05WPIaJ4aPAHDFTw6zMmyl2DByEHEc+PuhroFPd6Czor5dZGcx+Yy4AOJLzWZ1AjUzNFtbt2jCNcQRxA1YSPEST4ZtQjWV21
日・タイ友好 長政まつり
山田長政戦艦図絵馬 奉納行列
静岡浅間通り商店街様より

   南海の勇者、シャム国アユタヤに活躍した山田長政の戦艦の復元模型を狭山造船所京橋船台で建造した。長政はアユタヤに拠を構え、国王ソングタムに仕え、取り立てられて貴族に列せられ、後 リゴール王にま

で昇りつめた。帆船模型工房 狭山造船所 京橋船台では彼の戦艦の復元模型 「アユタヤ」を建造した。この一文は、そのあらましを報告するものである。

  山田仁左衛門尉長政

 長政は暹羅国(シャム国 現在のタイ)でオークヤーセーナピモックと称せられた。シャムにおける最高の貴族にして軍神という意味である。さしずめ公爵にして元帥というべきか、否、軍神と言うからにはそれ以上であろう。

 さて彼の絶頂期に郷里の静岡浅間神社に奉納した戦艦図絵馬と言うものがある。そこには「山田仁左衛門尉長政」の署名がある。形式ばった名である。この左衛門尉というのは明らかに武官の官名であるが、成功の後、このように自称したのだろう、公的に官位を受けた形跡はない。

彼の武人としての側面のほかに付け加えるとすれば、一大貿易商人とも言える。   江戸時代はいわゆる鎖国体制になって行ったが、それ以前は朱印船貿易や南蛮貿易が行われた。

山田長政はそのころの人物で、シャム国に渡り、シャムの首都アユタヤを拠点に活躍、商取り引き、貿易で財をなし、

data:image/jpeg;base64,/9j/4AAQSkZJRgABAQAAAQABAAD/2wCEAAoHCBYWFRgWFhUZGBgaHBocGBoaGhoYGBkaHBgaHhoYHBocIS4lHB4rIRgdJjgmKy8xNTU1GiQ7QDs0Py40NTEBDAwMEA8QHxISHjQkISQ0NDQ0NDE0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NDQ0NP/AABEIAQMAwgMBIgACEQEDEQH/xAAbAAABBQEBAAAAAAAAAAAAAAACAAEDBAUGB//EAEEQAAEDAgMGAwUHAgUCBwAAAAEAAhEhMQMSQQQFIlFhcTKBkQYTobHwFEJScsHR4WKSFSMzwvGCohZDU2OTo7L/xAAYAQEBAQEBAAAAAAAAAAAAAAAAAQIDBP/EACMRAQEAAgICAgIDAQAAAAAAAAABAhEDIRIxQVEiMgQTYbH/2gAMAwEAAhEDEQA/ALh3ThxGRvohG6sOIyNtyWrlSaxeWSOjNburD/A1GzduGI4AK8pWk1iMM+vNWaFI7uw/wN9ELt3M/A30C0C2qTmKiizYWD7jfQIMTYmH7jfRaIYgcxWVFL7IwfcHoiGyMH3R6BWixOGqrpV+zt/CPQJe4b+EegVkmKn1VR+88FsziNNYOWX15cIPMeq17SkMJv4R6BN9maT4RPZP9sZGaTHUEXnn2KbZ9rY/wOB6EEH0IBTQk+xt/CPQKF+yt/CPQLQApVRlqJVRuyM/A30Cf7Iz8I9ArWVKEFM7O38I9EAwByCuvahDE1BVZgjko34Q5K9lUTmKaFD3VYRjDFoVo4dUD2UQVfddB6pKzlSWhqFqQCkIQtXCNHATuj5fNIlOVoMAnhOnRQpiEUJoRDQmcERCUKjgt87WcXFcx05WPIaJ4aPAHDFTw6zMmyl2DByEHEc+PuhroFPd6Czor5dZGcx+Yy4AOJLzWZ1AjUzNFtbt2jCNcQRxA1YSPEST4ZtQjWV21
山田長政公銅像 

於 静岡浅間通り商店街 筆者写す

王に仕え次第に立身し、小国ながらリゴール(六昆と書き、首都アユタヤからははるかに離れた南部地域で、シャム国を宗主国とする国)の王となった。だから、大東亜戦までは南方進出の英雄として学校の教科書にも取り入れられて大いにもてはやされたものである。

 彼の事跡は静岡大学名誉教授 小和田哲夫氏の『山田長政 知られざる実像』に詳しい。

それによると、出身は伊勢とも尾張とも言い諸説あるが、どうも駿河であったらしい。生まれは天正18年(1590年)と言う。この年、豊臣秀吉の小田原攻めが秀吉勝利のうちに終わった。戦いはこの後にも関ヶ原の激突、大坂の陣などあるが、事実上の戦国時代は終わりを告げ、天下の大勢は決まる。槍一筋、あるいはおのれ一個の甲斐性だけで立身を望む者にとって面白くない時代の到来であった。加えて関ヶ原の戦い、大坂の陣の後、多くの戦国大名がつぶされ、浪人があふれた。あるいは秀吉のバテレン追放令から始まったキリスタン弾圧は、徳川幕府によって完成されるなかで、国内に身の置き所のない者も多く、そのような海外に新天地を求める人々の中に、山田長政も居たらしい。

 秀吉の時代から行われた朱印船貿易、南蛮貿易は彼の時代、益々さかんで、東南アジア各地に日本人が進出、日本人町が各地に作られた。風が頼りの交易船では長期の滞在の必要もあり、また商取引の根拠地も必要で、現地に住み着いたものだが、先方からみれば外国人がばらばらにしておくよりも、集団にまとめておいた方が望ましく、日本人町だけではなく、ポルトガル人町なども作られた。日本人町としては、ルソン(フィリピン)にはマニラに、カンボジャにはピニヤールやプノンペンに、コーチ(ベトナム)ではフェフェとツーランに、シャム(タイ)にはアユタヤがあった。

 慶長17年(1612年)23歳の頃、便船を得てシャムに渡った山田長政は、シャム アユタヤの日本人町でたちまち頭角を顕わし頭領に推された。当時シャム国は、繁栄の絶頂で、王はソングタムと言い、長政はその王に仕え、義勇兵を組織指揮した。日本でもそうであった様に、概して王国は熾烈な権力抗争のなかにあり権謀が渦まく中では、自国民であっても油断はできない。そんなとき、戦国時代に生まれ、後の無い外地で生き抜く日本人集団は少数であっても戦力は格別で、それが与党になれば、王からは頼もしい存在であったのであろう。ところが、権謀術数のなかの与党となれば、好むと好まざるにかかわらず、権謀の中に生きざるを得ず、王の死後の後継争いのなかに巻き込まれる。

1628年 日本の年号では寛永5年の末、長政39歳のときに、ソングタム王が崩御、後継は、王の長子、ジェッタ王子と、王弟シーシンの争いとなった。先王の希望もあり、長政も推してジェッタ王子が擁立された。しかし、そもそもこれがシャム国の慣習に反するもので王弟シーシンの支持者も多く、後に王位を簒奪するシーウォラウォンのつけいる隙になった。いずれにせよ、このときジェッタ王は猛烈な粛清を敢行している。しかし、わずか15歳の幼帝に施政能力はなく、血縁者でもあるシーウォラウォン改め、重臣カラホムに叛かれ、わずか8ヵ月で自らも処刑される。このとき山田長政は王都アユタヤにはおらず、カラホムのなすがままになってしまった。

 さて、カラホムは自ら王位に即こうと画策するが、さすがに果たせず、山田長政の反対もあり、王位は王弟アデットウンに渡った。1629年、王わずかに10歳であったと言う。これら王位継承に、かなり関わっていることから長政には相当の政治力があったことが窺える。長政はアデットウン王の成長を期待し、後見をもくろんだが、カラホムに牛耳られた王都、王宮に居場所はなく、リゴールに追いやられることになる。もちろん、カラホムにしても、一大勢力の山田長政を、理由なく追い出せはしなかったが、たまたま、リゴールは住民同志の対立で内乱状態のうえ、隣国パタニー(マレーシア)との戦争状態、まさに内憂外患で、長政の手腕を期待するとして、リゴールの長官に任じ、王位にまで即かせ、鳴物入りで送り出した。リゴールに就いた長政は、内乱状態の同地を簡単に平定したが、その間、カラホムは、かねてよりの計画を敢行、アデットウン王を殺し、自ら王位に即く。

アデットウン王は在位38日間、ソングタム王没後、1年にも満たぬ時期であった。いかにも手荒いクーデター劇である。長政そのような事情を知らぬあいだにも、隣国パタニーは、シャム国の内争を見越してリゴールに軍事攻勢をかけてきた。ために長政は戦争に明けくれる毎日でゆとりはなかった。しかし、激戦のすえ遂にパタニー軍を破る。

 戦後になってようやく、首府アユタヤのクーデターの事情を知り、大いに不満をいだくが、パタニー軍との戦闘中、自身も足に矢傷を受けていたため、にわかにアユタヤに乗り込むことは叶わず、対応のいとまは無かった。さて、長政は罷免したリゴールの前長官を忌避していたが、その弟オークプラ・ナリットを身辺においており、矢傷の治療もさせていたものだが、オークプラ・ナリットはカラホムの意を受け、治療するとして、傷口に毒の膏薬を貼った。長政はこの全くの椿事によって世を去る、41歳、一世の英雄とすれば、真にあっけない最期であった。

 思うに、ソングタム王との個人的な信頼関係によって大きにあった存在感が、王の死によって居場所がなくなり、外国人である故の宮廷内の潜在的な反感が、最後には彼の失脚、そして死につながったものであろう。首都アユタヤを離れ、リゴールに就かざるを得なかったことこそが、それを象徴していた。長政の死後、跡目は長子が継いだ。母はおそらく現地アユタヤの人であろう。名はオーククン・セーナピモック18歳であったと言う。この跡目を継いだというのがまたも現地の慣習に反するもので、もともとリゴールはシャム国の一地域でトップは王ではなく長官であった。長政が王になったのは、首都アユタヤから遠ざけるための口実で、内実は長官と見る向きもあった。長官は任免制で世襲ではない。長政の子がそのあとを襲うことは反感のもととなり、加えて新王は18歳と年若く、たちまちのうちに争乱が出来、激しい戦いでリゴールは廃墟となってしまった。オーククン・セーナピモックは勝ち残ったが、廃墟の王では如何ともなし難く、何処かへ落ちのびたと言う。

 遂にはアユタヤの日本人町も、簒奪王カラホム改めプラサート・トーン王の焼き打ちに遭い、灰燼に帰した。その後日本人町の復興はなされたが、往年の輝きはすでに過去のものであったと言う。

    山田長政の戦艦図

 世に『山田長政の戦艦図』と言うものがあり、よく知られている。それは駿河国総社静岡浅間神社に所蔵されていて、2枚あるが残念ながら双方ともに模写である。

 長政は静岡の出身で、シャム国に渡り貿易に従事しながら王室に仕え立身し、貴族に列せられた。その間、スペイン軍の侵攻を 2 度にわたり撃退するなど幾度かの戦に手柄を為したがその作戦にも使用せられたものだろうか、軍船が描かれている。

長政絶頂の頃、彼の国からはるばる浅間神社に奉納された絵であったが、惜しくも天 

シャム国アユタヤに活躍した山田長政の戦艦図絵馬を元にその復元模型を建造した。長政はシャムに渡り王に仕え、勲功を上げリゴール王にまで昇りつめた。静岡浅間通り商店街では毎年長政まつりが開催される。 神戸大学海事博物館所蔵の戦艦図絵馬。
 山田長政戦艦図模写

    神戸大学海事博物館蔵 筆者写

明の大火で焼失した。ところがそれに先立って写しがとられていて、神社はその「写しの写し」をとって社宝とした。後、大正になり元の「写し」が世に出てそれも神社に奉納されたので、現在は2枚とも神社にある。ところで、いま1枚の模写が神戸大学海事博物館にあり、同館の御好意で見学の機会を得た。図はその写真である。紙本着色で次の解説がある。「山田長政の戦艦図模写 山田長政(?~1630)はシャム(タイ)の日本人町で活躍した人物です。寛永3年(1626)に故郷の静岡浅間神社(静岡市)に「戦艦図絵馬」を奉納しましたが、それは天明8年(1788)に焼失しています。この絵は焼失前に模写されたもので、江戸時代初期の船が描かれた貴重な資料です」と。ただし、この絵自体の伝来は明らかではないらしい。

 さて、神戸商船大学名誉教授の杉浦昭典氏はこの絵を「戦艦というより武装商船という方がふさわしいが,実際に山田長政がこんな帆船を使っていたとは到底考えられない。」と、このような船の存在を否定された。左は言え、この絵をみると、一見ガレオン船に見える。ガレオン船とはいわゆる南蛮屏風に描かれた南蛮船を指し、大雑把には500トンから1000トン、あるいは2000トンともいう帆船で、軍用にも商用にも汎用された当時の代表的な大型帆船である。似たものにガリオット、あるいはガレウタという形式があるが、それはもう少し小型でラテンセール(三角帆)を主に艤装し、櫂(オール)の装備もある船である。

さてもし、この絵の船が架空のものなら、山田長政は自己の業績を誇示するために神様までだましたことになるが、それなら絵はまずは現地で目にする機会の多いポルトガル船 ― ガレオン船を描き、それに日本的な建物を載せ、日本の軍船のように多数の艪を装備し、それこそ当時としてもまことに時代がかった鎌倉時代の甲冑の武者を乗せた夢物語の船と言うことになる。

 別の見かたをすると、山田長政は彼の国で貿易を業とし、また、シャム国のために戦い、対スペイン戦にも勝利しているので、武装商船級かそれ以上の船を持っていたことも事実であるからその内の 1隻にこのような船があったとも考えられる。ならばそれはどのような船なのか。長政は、いわば裸一貫で彼の国に渡り、成功を収めるまで故国日本との交渉がないので日本国内で造った船、いわゆる和船を持っていたとは考えにくいし、また純和船では海外までの航海は困難である。また他には平戸商館長(オランダ東インド会社が、平戸に設置した貿易拠点)1625年の報告書に「長政のジャンク船が平戸よりシャムに向かった」との記事が見えるのでジャンク船は持っていた。それならガレオン船などの西洋型の帆船を持っていた可能性も全くには否定は出来ないと思う。勿論、絵に多少の誇張はあったにせよ ― 時代がかった甲冑武者がその典型であるが、― この絵のような、そんな船があったなら愉快なことである。

  マニラガレオン

 当時、マニラガレオンと言うものが行われた。スペインの植民地であったフィリピンのマニラと、中米アカプルコを行き来した。マニラガレオンは東南アジア諸地域、中国日本とも交易し、その富は太平洋を渡りアカプルコに送られ、スペインを潤した。またその船の多くは、フィリピンのマニラで建造されていたと言う。この海域にはポルトガル船とスペイン船が行き来し、ポルトガルの活躍も顕著であるが、その関連においては、あくまでもスペインの支配下にあるという複雑な環境にあり、長政はその間隙をついて手段を講じ、ポルトガル船を入手したかも知れない。

または純軍事的に接収したのかもしれない。絵をつぶさに観察すると、激突艦首は実用と装飾の中間でガレー船の名残を感じられ、船体はガレオン船のように船尾に大きく反り上がってはいなく、代わりに和風の宮殿様の甲板室がある。しかし、帆装は杉浦氏指摘の様に「ヤードとマストの関係が不自然」とすれどもマートネット、やクロウフット(あやとりに似たロープ使い)の多用があり、スプリットセールの形状もふくめ、極めてガレオン的である。

問題は舷側から突き出した片舷9本の櫂である。これを漕帆両用とみれば、ガレウタであろうし、砲窓から出す極めて臨時的な長櫂(スイープ)、あるいはそれこそ絵師の筆の走り過ぎで、日本の軍船のような多数の艪を描き加えたと考えると、この絵の元の船はガレオン船であったのであろう。

 山田長政が所有するジャンク船等の交易船 ― 武装商船の内の一隻にガレオン船があり、それもそのままに使用されたものではなく、多少の改装も施し、船尾楼に、故郷浅間神社の神殿を乗せたものかも知れない。絵の船には長櫂(スイープ)が装備されている。元々の船はガレオン船で、長政が入手した後に日本の軍船をまねて後補されたものであるかも知れないが、ここでは、元々の船に装備されていたのではないかとしておく。

しかしガレオン船クラスの船が、櫂で漕いで簡単に動くものではなく、かろうじて入出港時に移動ができた、あるいは特殊な局面で臨時的に使用するレベルで、とても、どんどん進めるような 

%25252525252525252525E6%2525252525252525

⚓寧波

⚓安平

ツーラン

フェフォ

マニラ

アユタヤ

ピニヤール

プノンペン

⚓ナコンシ-マラート

⚓バタニー

⚓マラッカ

⚓ブルネイ

⚓ハイフォン

​ビルマ

​シャム

​アンナン

​明 国

​リゴール

高山国

呂 宋

⚓香港

​朱印船寄港地

⚓:朱印船寄港地

​・ 日本人町

機動力は無い。それにしても漕いで多少なりとも動くとすれば、船型は相当小型の部類であろう。

さて当時は、動索(静索は括り付けで、マストなどの補強用、動索は操縦するため、引いたり、括りつけたりするロープ)を係止する索止め(ビレイピン)の使用は未だで、横棒(バー)で艤装する。足場索(フットロープ)の使用も無いので帆桁(ヤード)の上を歩いて渡る。と言うまだまだ、近代化以前の形式であったと考えられる。

bottom of page