top of page

山田長政の戦艦図、研究者の見解​ 

   杉浦昭典氏の見解

 山田長政の戦艦図の「船」自体について、識者はいかに解釈されているのだろうか。先ず神戸商船大学名誉教授 杉浦昭典氏は、「写しであるせいか、それとも原図がそうであったのか分からないが、帆走装置と船体が少しずれていたり、ヤードがマストの後面にあったりして不自然なところがあるとはいえ帆の配置は先ず先ず整って見える。しかも船首に2門、片舷に8門(総18門)の大砲があり、片舷9本(両舷18本)のオールで漕いでいるところは面白い。オールが櫓に見えたり、鎧姿の武士約30人が乗っている 船体と船楼が日本風であるのは、描いた絵師も日本人であったことを思わせる。

   これを戦艦図としたのは山田長政自身ではなく、受け入れた神社側の命名であろう。戦艦というより武装商船という方がふさわしいが、実際に山田長政がこんな帆船を使っていたとは到底考えられない。その年代と当時の情勢から見る限りポルトガル船を模した可能性が高い。

ポルトガル船といってもガリオンではなく、その大きさと漕帆両用船であるところから類推してガリオットすなわちガレウタといえるかも知れない」(『海事博物館研究年報』 神戸大学海事科学研究科海事博物館 平成23年3月31日)と、実在性を否定しながらもガレウタであろうとされた。

Empty%20Stage_edited.jpg
狭山造船所京橋船台で設計復元建造した山田長政の戦艦アユタヤは、2015年第30回 日・タイ友好 長政まつりに駿河国総社 静岡浅間神社に奉納した。山田長政戦艦図絵馬ミニチュアは、その時、ご褒美に頂戴したものである。
山田長政戦艦図絵馬ミニチュア 

  静岡浅間神社よりのご褒美 

シャム国アユタヤに活躍した山田長政の戦艦図絵馬を元にその復元模型を建造した。描かれた船はガレオン船である。長政はシャムに渡り王に仕え、勲功を上げリゴール王にまで昇りつめた。静岡浅間通り商店街では毎年長政まつりが開催される。
ガレオン船 メイフラワー号 模型 

  神戸帆船模型の会  大築康生氏 建造

   石井謙治氏の見解

海事史研究家 石井謙治氏は、「寛永三年(1626)長政が静岡の浅間神社に奉納した絵馬の模写。原物は江戸時代に焼失して、いまはこれだけが頼りである。船型は西欧のガレアスだが、全体的に和風を強く感じるのは日本人絵師が描いたせいであろう。主檣の後ろに立つ鎧姿の人物が長政のようだ。」(『人物海の日本史 朱印船と南海雄飛』 毎日新聞社 昭和53年12月1日)とガレアスと解された。

いずれも帆走、漕航併用に注目された解釈である。

  小和田哲夫氏の見解

 一方静岡大学名誉教授で『山田長政 知られざる実像』(講談社 昭和62年8月10日)の著者、小和田哲夫氏は、「船そのものの形に注目したい。というのは、今日に伝わる朱印船絵馬に描かれた船と、この長政の船とがきわめて似ているからである。京都の清水寺に角倉朱印船絵馬があり、さらに、松浦資料博物館所蔵『唐船図鑑』に描かれた朱印船と同じ形をしていることに気がつく。このことから私は、長政の奉納した戦艦図絵馬は、長政の戦艦を描いたものというよりは、むしろ、長政の仕たてた朱印船を描いたものと考えた方がいいのではないかと考えている。朱印船は、海賊の襲来を防ぐため、必要最小限の軍備をしており、この場合、正面と舷側に描かれた大砲はそれであり、船上の人物はまた、ちがった意味あいをもって、別次元のものとして描かれたのではなかろうか。従来から長政の戦艦図絵馬といわれていたものが、角倉船や末次船と同じく朱印船絵馬であったとすれば、長政の位置づけについても再検討の必要があるように思われる。」と山田長政の戦艦図を朱印船と結論付けられた。

 朱印船とは本来船型を言うものではないが、多くの絵馬に描かれた平均的な朱印船ならば、和船、中国ジャンク船、西洋型ガレオン船の折衷型とされ、日本前ともいわれるものの帆はジャンク船に用いられる網代帆で、外観的には中国ジャンク船の色彩の濃いものである。この船絵を、そう受け取るにはあまりにも西洋船の特徴が濃厚で、これは難のある解釈である。

 ならば、筆者はいかに考えたかであるが、この船絵の上部、即ち、帆装々置に注目すると、これはガレオン船以外には考え難い。殊にマートネットやクロウフット(あやとりの箒か熊手に似たロープ装置)の多用があり、ミズンマスト(後部のマスト)のラテーンセール(三角帆)等を見るとガレオン船そのものである。ただし、ガレオン船にはオールは備えることは無いので、この絵はポルガルのガレオンを模して架空の船を画きながら、なお、筆の勢いでオールを描き足した、あるいは、日本の軍船を想起して、櫓を画いてしまったことなども否定はし切れない。しかし、そうも言いつつも、この絵の 船が実として存在し、山田長政がこれ に座乗、南海にその勇声を轟かした、との想いも捨てられない。

 そんな想いも交錯しながら小型のガレオン船には例外的にオールが備えられ、臨時の用に供せられることもあったのではないかと考えた。これは、後世19世紀頃のスクーナー艦やカッター艦(共に帆装小型戦闘艦)にその例が見られる。それも常時、使われるものではなく、普段は帆走を専らとして、局面には特殊な性能として活用された。山田長政の戦艦とはそのようなものではなかったのだろうか。

 山田長政は購入したのか接収したのか、なんらかの形で小型のガレオン船を入手して、後部甲板の1層を日本風に改造して、船首楼やピークヘッドの意匠をこれも日本風に造り変えて、運用してい

たのではないかと考えてみた。

 山田長政はオークヤーセーナピモックと称せられ、シャムにおける最高の貴族にして軍神という意味である。その称号のとおり、戦士としての側面は大きく、王の親衛隊の役目もはたしているし、対スペインの海戦に2度も勝利している。しかし、その始めは朱印船貿易で成功した商人の刺激によって単身彼の地に渡ったことによる。

彼も朱印船商人同様、商取引によって財をなし次第にのし上がっていったものであろう。

故にこの船は戦艦と言われるものの、戦艦とは言えず、砲を備えた交易船、武装商船と言われるものであろう。

大阪平野の豪商末吉家が、京都清水寺に寛永11年に奉納された絵馬をもとに狭山造船所京橋船台で末吉朱印船の復元模型を造った。網代帆で上部に布帆を有する2檣と後檣にラティーセールを備える和洋中華の折衷形式のミスツィス造りである。船体長41.2m排水量695tonを想定している。
  朱印船模型(末吉船) 

         筆者 建造

bottom of page