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​蒸気軍艦「回天丸」の設計

​私設非営利木製帆船模型工房 狭山造船所京橋船台

    蒸気軍艦「回天丸」の設計

   さて、建造されてから故国を離れて3ヶ国を巡り名も3度変えられ、最後は座炎上した「回天丸」である。なんとかしてこれを復活させたいと思い復元模型の設計に取りかかった。簡単な側面図がいくつかあったが、一般配置図などの平面図は見つからなかった。

しかし、時代的に写真の黎明期であり、いくつかの写真、かなりの数の絵・写生・スケッチなどが入手できた。また、要目などの数値資料・文章表現・研究成果なども入手した。 

 まず、要目を文献別に列記すると表 1になった。 取捨要約すると「造るべき回天要目」表 2となった。ただしこれが正しいとすると、排水量は優に2000トンを超える、なにか誤りがあるとも考えられるが長さ・幅などを正として設計することにした。

1 図・10図などから、艦姿は 3バーク帆装 2本煙突で整った形の外輪蒸気軍艦である。

 砲配置は(註 15)「大砲は左右英国製ブレッケレー40斤砲 5挺づゝ銅製 15(ドイム)(cm)のホイッスル 1挺づゝ、前面に 50斤長加農1挺を備え、ホイッスルを除く外はれも施條砲なりき」と明らかである。

 艦橋(駐 16)は本来の橋形であり、単舵輪である。  さてこの舵輪の位置であるが、宮古湾海戦の折に艦長戦死、操舵手も亦戦死し「司令荒井郁之助自

ら舵を執りて伝々」との記事があり、艦橋に配置があったともとれるが 7図に見るように残された絵には描かれていない。この度は通常の艦尾ミズンマスト付近とした。フィギュアヘッドは艦名を英国でダンツィヒからイーグル号に変えられたときに女神像から変えられた由にて、鷲とした。

  艦名は「回天」が正しいと思うが特攻兵器    「回天」との混同誤解があり「回天丸」とした。

9図ストンモウル(甲鉄)の図『遊撃隊起終南蝦夷戦争記・附録戦地写生図』函館市 市立函館博物館 所蔵

9 図   ストンモウル(甲鉄)の図

『遊撃隊起終南蝦夷戦争記・附録戦地写生図』

函館市 市立函館博物館 所蔵

10図 回天艦の図『遊撃隊起終南蝦夷戦争記・附録戦地写生図』函館市 市立函館博物館 所蔵

10 図   回 天 艦 の 図

『遊撃隊起終南蝦夷戦争記・附録戦地写生図』

函館市 市立函館博物館 所蔵

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出 典 別 要 目 の 一 覧       斜体文字:筆者計算値   表  1

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            出 典 一 覧    敬称略       

『海軍歴史 復刻』   勝 海舟  株式会社 原書房  昭和42年10月10日

『回天艦長甲賀源吾傳』 石橋 絢彦 甲賀源吾傳刊行会  昭和7年12月31日

『幕末の蒸気船物語』  元網数道   (株)成山堂書店  平成16年4月28日

『図説 日の丸船隊史話』 山高五郎  至誠堂    昭和56年7月20日

『幕府軍艦「回天」始末』 吉村 昭  文春文庫  2014年5月5日 5刷(1993年1刷)

  web колёсный паровой корвет (Radkorvette) DANZIG

  web Wikipedia     回天丸                      

造るべき回天丸の要目    

​    表 2

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「回天丸」全体図面 狭山造船所京橋船台設計室 設計
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「回天丸」船体線図 狭山造船所京橋船台設計室 設計

回 天 丸 全 体 図

回 天 丸 線 図

回 天 丸 動 作 索 配 置 図

    註 及び参考・引用文献         敬 称 略

註  15    前出『回天艦長甲賀源吾傳』 p280 東郷平八郎は薩摩出身の海軍軍人、日露戦争時

          連合艦隊司令長官として戦艦三笠に座乗し、日本海海戦を指揮、ロシアバルチック艦

          隊を撃破、国民的英雄となる。侯爵 元帥海軍大将。

註  16    帆船は概ねクォーターデッキ(後部甲板)で操舵・指揮をするが、外輪船ではそこか

          らは前が見えない為、左右外輪を渡す橋(ブリッジ)を装備、橋上で指揮を執るよう

          になった。現在の汽船の指揮所をブリッジというのはこれが語源である。

 

「回天丸」動索配置図 狭山造船所京橋船台設計室 設計
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