
蝦夷 榎本武揚軍々艦 回 天 丸
私設非営利木製帆船模型工房
狭山造船所京橋船台 船匠 平田紘士
蒸気軍艦「回天丸」は幕末、蝦夷地に就いた榎本武揚軍に属し、宮古湾海戦や函館湾海戦にて活躍、最後は薩長連合(官軍)に敗れ、函館湾に炎上した悲劇の艦である。狭山造船所京橋船台ではそれを惜しみ 80分の1の模型として復元建造した。
この一文はその建造記録である。
土方歳三も乗った軍艦 回天丸
軍艦「回天丸」は元、安政 2年(1855年)建造のプロシア(後のドイツ)(註 1)の軍艦ダンツィヒ(Danzig)号である。プロシア海軍創設期において建造された木造外輪式蒸気コルベットだった。設計および蒸気機関の製造はイギリスに依頼されたが、プロシアのダンツィヒ造船所で最初に建造された軍艦でもある。
それまでプロシアでは、商船しか造ったことがなかったので、優秀な造船職工を集め、国内産の最上のオーク材を使って、船体を造ったという。当時の木造軍艦の寿命はおよそ8年で、文久2年(1863年)ころには軍籍をはずれ、武器が外された。これには、ちょうど蒸気船が、外輪式から暗車式(スクリュー)へと移行した時期だったことも関係すると考えられる。つまり外輪式は旧式になりつつあり、プロシア海軍の主力艦としてはふさわしくない、とされたようだ。公売された結果、イギリス商人が手に入れ、ロンドンにおいて修理

1 図 回 天
『回天艦長甲賀源吾傳』より
新たに武装が施された。大砲は左右にイギリス製の 40斤ライフル砲を 5門ずつ、銅製の榴弾砲を 2門、前面に 50斤ライフル砲 1門を備えた。また船首を飾っていたダンチヒ市(現在はポーランド領グダニスク)の象徴である女神像(註 2)は鷲に変えられ、イーグル号と名付けられた。
外輪式は暗車式(スクリュー)にくらべて、馬力のわりに速力が出ない。そのため(当初からか改装時かは不明であるが)、コルベットとして小型の船体に400馬力という強力な蒸気機関を積んでいたものと考えられる。
さてこの艦はその様にやや複雑な経緯のうえ、日本幕府の入手するところとなった、慶応元年(1865年)のことである。当時の国内海軍力は幕府が中心であった。各藩にも多少の軍艦があったが、多くは船手組だの軍船だのとおよそ時代がかった物で、戦力は幕府が圧倒していた。とりわけ慶応 3年(1867年)に就役した開陽はオランダに発注された新鋭艦で強力な武装と機関を有していた。回天丸はそれに次ぐ艦で本格海戦を前に 開陽は嵐で座礁沈没したため、榎本武揚軍(註 3)の旗艦になり、宮古湾海戦・函館海戦にて活躍した。
戊 辰 戦 争 (註 4)
鳥羽伏見の戦いは慶応4年(1868年)1月3日偶発的に起こったやに見えた、が、左ではない。手ぐすね引いて待ち構えていた薩長連合軍に、長州での戦訓を学ぶことも習うこともしなかった幕府・徳川慶喜がまんまと策に落ち、混戦のなかわずか4日で決着した。
これが家康なら、かかる無様を晒すわけもなく、また一時の敗戦になったにしてもすぐに盛り返す策を講じたであろうが、臆病風に吹かれた慶喜は麾下将兵を捨て、嫌がる会津中将松平容保を道づれに船で江戸に逃げ帰った。このとき彼の「開陽」に乗船したが上陸していた榎本武揚を置き去りに出帆するほどの狼狽ぶりであった。
思えば征夷大将軍の口なるものは前線に立つ将兵を叱咤 指揮するものではなかったか、徳川 260年の治世は武でもって成り立っていたのではなかったのか。
内部の政治談議にうつつを抜かし、泰平のなかでの勢力争いを業として、戦略も戦術もましてや胆力がない。これでは長袖の公家となんら変わることはない。案の定その後 4月には江戸城の無血開城、自身は水戸に謹慎した。残された幕臣及び一族郎党の行く末を顧みることもなく、己 一身の安寧を願うだけの腰抜けの征夷大将軍であった。
もっともこのおかげで江戸は戦火をまぬかれ、日本の国内戦「戊辰戦争」も早期に決着、侵略を試みる西欧列強の植民地になることはまぬかれた。
江戸 260年の泰平の世は家康の悪辣な政権簒奪で成立し、明治以後のわが国の発展は慶喜の無策によって成功、結果オーライの決着を見た。
それはさておきそんな幕府・将軍に見切りをつけ、薩長連合軍に抵抗を試みる勢力がいくつかある。それは会津であり、奥州越列藩同盟であり、拙稿主役の軍艦「回天丸」を擁する蝦夷 榎本武揚軍である。
蝦夷 榎本武揚軍の成立
先に徳川慶喜が水戸に謹慎したと述べたが、それにより幕府の擁する軍艦も薩長連合軍に引き渡されることになった。が、これを潔しとしない幕府海軍副総裁榎本武揚はかの咸臨丸含む艦船8隻を率いて江戸を脱出し(註 5) 奥羽越列藩同盟と合同せんと発航した。従う者2000名に達すと言う。しかし事態打開は同盟の劣勢のなかに思いを果たせず、蝦夷地に就いた。
一連の慶喜の無策によって瓦解した幕府は政権を返上してわずか70万石の普通の大名並みになり下がった。
そのため旗本 8万騎ともいわれた幕臣とその家族はその日の糧にも難渋する有様である。
榎本武揚はこれを蝦夷地に移し開拓事業に従事させ、併せて南下政策をとるロシアを見すえての北方の守りに就かせるとの理想があった。
蝦夷は当時、松前藩と箱館府が置かれ新旧の体制が混在支配していた。箱館府はよせ集め兵で戦備は整わず、松前藩はわずか1万石とも3万石ともいう米作の出来ない弱小藩であった。この 1府 1藩が蝦夷地全体を管理支配しているとはとても言えず、彼の理想もある状況下では一部実現したかも知れない。ともあれ、榎本艦隊は箱館府・松前藩との直接衝突を回避して、内浦湾鷲ノ木沖に投錨した。榎本武揚は彼の理想の趣意書を持たせ箱館府に使いを送るが、これを箱館府兵が襲撃、函館戦争の発砲第 1弾となった。

2 図 総裁 榎本武揚他
後列右蟠竜艦長松岡磐吉
前列右榎本武揚
左海軍奉行荒井郁之助
『国立国会図書館』蔵
しかし乍ら箱館府兵が戦なれた榎本武揚軍に敵するべくもなく鎧袖一触、知事は青森に後退、榎本軍は無人となった函館五稜郭(註 6)に無血入城を果たした、五稜郭最初の落城である。松前藩のほうは相当の反撃をしたが同様に藩主を擁して船で津軽に逃れ、北海道は榎本軍の平定するところとなった。
函館では五稜郭をを拠点として北海道全域を支配下におき、入れ札(選挙)の結果自信が総裁に就任、半独立国的(註 7)なものとした。このとき元新選組鬼の副長土方歳三は陸軍奉行並に就任し、海軍奉行は元幕府軍艦頭荒井郁之助である。
さて、これより前、松前藩攻撃に派遣した旗艦「開 陽 (註 8)」が松前で座礁沈没、救援に駆けつけたと輸送船「神速丸」も同じく座礁沈没し、この 2隻を喪失した、榎本軍の海軍兵力は本格戦闘前に激減していた。
開 陽は当時国内最大最強の軍艦で言わば守護神に等しく、この艦あらばこそ津軽海峡の制海権を維持して官軍陸兵の蝦夷地上陸を阻止できるわけだ。一たび敵の上陸を許し北海道のいずれかにでも橋頭保を築かれると、補給も補充も断然有利な官軍の優性は確実となってしまう。ともあれ以後は「回天丸」が旗艦としての任務を引き継ぐこととなった。
艦長は甲賀源吾である。甲賀源吾は元遠州掛川藩家臣、後幕臣となった天保 10年生まれの当時 31歳、蘭学・航海術などを学び、長州の下関戦争時、幕府軍々艦「朝陽丸」艦長、榎本軍江戸品川脱出時は回天丸艦長であった。
装甲艦「甲 鉄」の参戦
さて以前より江戸幕府は、米国と交渉、装甲艦「甲 鉄」(註 9)を購入すべく契約し、仝艦は日本に回航され品川に係留されていた。この艦は強力なアームストロング砲を3 門装備。艦体と砲郭に最大140mmの鉄の装甲を貼り、2 舵 スクリュー 2軸をもつ強力艦である。
ところが戊辰戦争勃発により局外中立を盾に引き渡しが保留されていた。それが戦争の帰趨が決したと見た米国はこれを薩長連合軍「官軍」に引き渡してしまった。
「甲鉄(東艦)」は官軍の旗艦となり、今にも蝦夷地に進撃してくると言う、これが実現すると海軍兵力は完全に逆転、陸軍兵力では補給補充の有利な新政府軍に抗すべくもない。
窮した榎本軍はこの「甲鉄」を正攻法でなく途中の投錨地の宮古湾(宮古港)(註 10)において斬りこみ乗っ取り作戦を敢行した。
宮 古 湾 海 戦
計画は小型艦の蟠竜・高雄が甲鉄の両側から
接弦斬りこみ、甲板上を一応制圧し、次いで敵僚艦を牽制しながら回天丸が横付けし、主力の土方歳三率いる陸兵で完全制圧のち回天丸によって曳航奪取しようとしたもののようだ。
3月20日 函館を出港した 3艦は一路太平洋を南下、宮古湾に向かうが嵐のため離散してしまう、のち高雄との合流は果たすも蟠竜とは巡り合えず高雄と 2艦で攻撃することに決した、が、今度は高雄の機関不調となり、結局は回天丸 1艦で突入することとなった。
本来はここで断念すべき作戦である。投錨中とは言え、敵艦 8隻のなかに単艦で侵入して、最も新鋭の艦を撃破すると言うならともかくも、奪取して函館まで連れ帰るなどいかなる天佑神助を信じたのであろうか、ともあれ単艦泊地に侵入した回天丸は、幸運にももっとも湾口近くに停泊していた甲鉄を発見した。
先ず米国旗を掲げ攻撃寸前に日章旗を揚げるとする。これとても国際法には違反せずと言うが、窮すれば自己に有利なルールを発明する西欧の悪しき伝統を踏むもので感心したものではない。さて回天丸は甲鉄をめざして肉薄するが外輪船のため船端(ふなばた)同士を接するような接舷が出来ない、結果的に甲鉄の横腹に回天丸の艦首部分が直角に乗り掛かったに過ぎない。その上、甲鉄の甲板が3mも低く、乗り移るのには非常に困難。本来、雪崩を打ったような斬りこみを意図したが、言わば散発的な攻撃になってしまった。
艦長甲賀源吾は艦橋に在って叱咤するに士官大塚波次郎・新選組野村理三郎・彰義隊笹間八
郎・仝加藤作太郎らが斬りこんだが甲鉄はガトリング砲(註 11)で応戦、甲賀源吾も身に数弾を受け絶命、戦死者も続出したため司令荒井郁之助は継戦困難とみて離脱退却を命じた。
この時装舵手も被弾して戦死、司令自ら舵を執ったという。
さりながらこの時、若き東郷平八郎(駐 12)が甲鉄の僚艦春日に乗り組んでおり、栄進した後この攻撃を称賛している。
官軍の全くの油断のなかであわや成功かとも思われる攻撃であった。
それはさておき、これを甲鉄側から見ると、宮古湾に僚艦とともに錨泊中に正体不明の船が湾内に入ってきたが、さして疑わずにいる内に、いきなり接舷攻撃を受ける。回天丸は嵐でマストを一部失っていたため(註 13)識別出来なかったことも一因である。
かかる攻撃には甲鉄自慢の装甲もアームストロング砲 3門もさして役に立たないわけであるが、搭載していたガトリング砲を発砲して撃退した。ガトリング砲は陸戦用らしく、臨時の装備として載せていたものか、単に輸送中なのかは不明なれども、よくもこの局面で直ちに発砲応戦できたもので、もし、回天丸側にいま少しのつきがあれば、陸軍奉行並 土方歳三の率いる部隊に乗っ取られていたかもしれない。なにせ往時の蒸気艦船は一度ボイラーの火を落とすと容易な事では出航できない。
回天丸は退却逃走、甲鉄他官軍艦艇は遅ればせながらも追撃、回天丸は取り逃がすも春日がその僚艦 高雄を途中で捕捉、仝艦は機関が故障していたため進退窮まり、艦を岸辺に乗り上げ乗組員は艦を焼いた後上陸投降した。
回天丸・蟠竜 2 艦はようやく函館に帰投したが痛手は大きかった。
函 館 決 戦
官軍は陸海軍ともに青森に集結、明治2年(1869年)4月9日早朝函館の直接対決をさけて乙部に上陸した。榎本軍と小競り合いはあったが江差を奪還、後続部隊は続々と江差に上陸、各地で激戦が展開されたが榎本軍は陸兵に呼応する艦砲射撃にも悩まされ、徐々に後退、この間二股口では防衛する土方歳三指揮下の衝鋒隊・伝習隊からなる300名は再三 再四官軍を撃退するが、官軍は常に新手を投入してくる。海上では 4月24日官軍 5隻をもって函館湾に侵入、榎本軍は回天丸・蟠竜・千代田形 3艦にて応戦、弁天台場からも砲撃したが互いに有効打はなく官艦は後退した。しかし乍ら、函館湾を除く外海や津軽海峡の制海権は官側にあって、新手の補給補充は自在、なお且つ海岸線近くの戦場は常に艦砲射撃の脅威にさ
らされた。土方歳三もついに後方を扼されるにつけ 4月29日には五稜郭まで後退した。これにより榎本軍の活動範囲は五稜郭及び弁天台場を結ぶ線まで後退した。たたり目と言うべきか同日榎本軍千代田形が台場付近で座礁する事故が発生、あわてた艦長森本弘策は艦を捨てて乗員もろとも短艇にて上陸、同艦はその後満ち潮で漂流、官軍がこれを確保して自軍に編入してしまった。
以後榎本軍は回天丸・蟠竜 2艦のみとなってしまった。甲鉄・春日以下官艦は再三襲来し、先ず蟠竜が傷つき 5月7日、回天丸もまた敵弾により機関を損傷、自ら浅瀬に擱座し浮砲台として戦った。しかしそんなとき 11日攻囲軍の攻撃のさ中、蟠竜の放った1弾が官軍 朝陽(註 14)の火薬庫に命中、大爆発とともに瞬く間に沈没した。
榎本軍の士気大いに揚がるといえども、大勢は変わらず、回天丸は海側からのみでなく後方陸側よりも

8 図 土 方 歳 三 像(部分)
『国立国会図書館』蔵
砲撃を受け止む無く放棄、乗組員は五稜郭へ撤収、その後回天丸は官軍に放火され炎上し、骨組みのみとなってしまった。蟠竜も機関に不調をきたし、浅瀬に乗り上げて戦うが弾薬も尽き乗り組み一同上陸した。これにより榎本海軍は全く壊滅した。
陸上戦闘においても多勢に無勢、台場救援に出動した土方歳三も一本木にて戦死、ついに榎本軍を五稜郭に押し込んだ。甲鉄は艦砲射撃によってこれを攻撃、弾丸は 2㎞超える距離を飛翔、死傷者多数を出した。実損害もさること乍ら、かかる長距離を超えての着弾に榎本軍をして恐怖のどん底に陥れた。函館戦争は実質的にこれによって終結。
函館五稜郭の2度目の開城は明治2年5月18日(1869年6月27日)である。
註 及び参考・引用文献 敬 称 略
註 1 『図説 日の丸船隊史話』 山高五郎 至誠堂 昭和56年7月20日 p25
註 2 『回天艦長甲賀源吾傳』 石橋 絢彦 甲賀源吾傳刊行会 昭和7年12月31日 p276
註 3 幕臣、オランダ留学などを経て、幕府海軍副総裁。実質的に幕府海軍を統率する立場に
あって、幕府瓦解後もこれを指揮した。浪人した旧幕臣の生活安定のためと称し、蝦夷
開拓を志すが新政府はこれを許さず、函館戦争を惹起、敗戦後は獄中にあったが、後
明治政府に出仕、北海道開拓に従事、栄進して、大臣を歴任、子爵・海軍中将。
土方歳三など数多戦死のなかでの栄達、釈然としないものを感じる。
註 4 徳川慶喜は大政奉還で事態打開を図るも幕府解体を画策する薩長連合が挑発、鳥羽伏見
の戦闘に始まり会津・奥羽の戦闘を経て函館戦争で終結する慶応4年(明治元年1868年)
1月3日~明治2年(1869年)5月18日までの一連の旧幕府軍と薩長連合軍(官軍)の戦争
註 5 『幕府軍艦「回天」始末』 吉村 昭 文春文庫 2014年5月5日 5刷(1993年1刷)
註 6 函館開港に伴う事務・防備などの要請のため箱館校外に建設した防衛拠点兼役所、箱館
奉行所が置かれた。軍艦の大砲の届きにくいやや内陸部に西洋式城郭を建設した。
銃砲の死角を無くすため鋭角の堡が5つあるため五稜郭と呼ばれる。
現在は市民憩いの場であり、また有数の観光地となっている。
註 7 世上、蝦夷共和国設立を目的としたと喧伝されているが、左ではなく、浪人となった旧
幕臣の生活安定のため蝦夷地の開拓を志した。ただし一時的に蝦夷を実質支配、北海道
政権と認める向きもある。
註 8 オランダ製排水量2590トン 主砲クルップ式16cm前装施条砲18門含む全34門搭載 蒸気
フリゲート、当時国内最大最強の軍艦
『幕末の蒸気船物語』 元網数道 (株)成山堂書店 平成16年4月28日 p104
註 9 アームストロング口径28センチの300ポンド前装滑腔砲1門 ・アームストロング70ポント前装゙ライフル砲
(口径12.7センチ)2門を砲郭のなかに装備、装甲は砲郭と艦側全面に102mm~140mm
をする強力な蒸気装甲艦。暗車(スクリュー)2軸及び2舵、巨大な衝角を持つ。
『軍艦メカ図鑑 日本の戦艦 上』 泉 江三 グランプリ出版 2001年4月20日
註 10 岩手県三陸海岸にある湾及び港。往時の港(湊)の多くは岸壁はなく、投錨して小舟で
荷役する。該海域はリアス式海岸で天然の良港、この海域を南北に通過する船舶の格好
の中継地となる。榎本艦隊が江戸脱出、蝦夷に向かう途路にもここで集結した。同地に
は東郷平八郎の題字による戦跡碑の他複数の記念碑が建立された。
尚、該海戦は湾内にある宮古港と言われる狭い海域で行われたため往時 多くは「宮古港
海戦」と称され、地元では現在も「宮古港海戦」とされる。『宮古港海戦』宮古港海戦
150年記念誌 宮古市教育委員会文化課市史編さん室 2020年1月31日 p43
註 11 機関銃の初期型、6本程度の銃身を環状に配置、手動などにより回転させ、装填・発射・
排莢を連続的に行う画期的な兵器。砲とあるが左ではなく銃。
前出『軍艦メカ図鑑日本の戦艦 上』に「陸用のガトリング機関砲が搭載されたとの記
録もあるが」とあり、甲鉄の常備装備ではなく陸戦用の車の付いたものを臨時に搭載さ
れていたと解釈できる。
註 12 前出『回天艦長甲賀源吾傳』 p68
註 13 榎本艦隊が江戸脱出の途路、房総沖で嵐に遭遇、回天は前檣・主檣を折損した。
註 14 咸臨丸の姉妹艦、3檣バーク帆装 蒸気暗車(スクリュー)軍艦。要目は不詳なれど咸臨
丸と同じなら排水量625トン